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本日のおとなりさん 活動日誌(土日祝以外は、だいたい更新)

2017・8・1・火

今日、紙版「おとなりさん」の
2017年夏号が発行です。

そして、突然ですが、
この号を持って「おとなりさん」は
休刊することになりました。

Webの更新も、
基本的には今日が最後になります。

事務的な連絡としては、
今号で募集する「第三回 小田原川柳大賞」の
結果発表と、
読者プレゼントのパズルの答えは、
11月1日にこのページで発表します。

「おとなりさん」は
小田原の地域コミュニティーを
映す鏡でした。

3年半をかけてつくった
この「おとなりさん」というものが、
完成したのかどうか、
ぼくにはわかりません。

媒体として、
まだやれることがあったような気もしますし、
逆に、やるべきことはすべてやりきったような
感じもしています。

とはいえ、はじめたら、
いつかは終わらせなければいけません。

「おとなりさん」は、ここで終わります。

ぼくのこのエッセイのようなものの連載も、
今日でおしまいです。

休刊の挨拶にしては
あっさりしてると思われるかもしれませんが、
力を注いできたものだからこそ、
最後までいつも通りに、
お別れしたいと思っています。

今まで「おとなりさん」を読んでいただき、
ありがとうございました。

運営して来た「デザインこねこ株式会社」としては、
「おとなりさん」の読者のみなさんと
一緒にすごした年月は、得がたい財産になりました。

ぼくたちは、また新しいことに
チャレンジしていきます。

終わりは、はじまり。

また、どこかでお会いしましょう。

おとなりさん編集長
長嶺俊也

本日のおとなりさん 活動日誌(土日祝以外は、だいたい更新)

2017・7・31・月

 

「10年後に変わっていることは
なんですか?」

今の社会変化のスピードなら、
10年後にはまたいろいろなことが
変わっているだろう。

約25年後には、
シンギュラリティー後の世界になっていて、
そこでは、あらゆるものの価値が
今とはちがうと言われている。

何がどう変わるのか、みんな必死で考え、
推論をたて、議論している。

もちろん、変わる瞬間というのは、
大きなビジネスチャンスだからでもある。

その瞬間、前後の世界の差異でビジネスをするのだ。

未来のことというのは、
どこか、無責任に言いあえる気持ち良さもあるから、
考えるのは、とてもたのしい。

では、逆に、変わらないものってなんだろう。

淡々とただ在るもの。

何も変わらず、なくなりもせず、
残りつづけるものがあるとしたら、
それは、一体どういうものだろうか。

そのものが持っている価値というものは、
一体なんなのだろうか。

おそらく、その価値は人に気付かれなくても、
ただそこにあるのだ。

だから変わることなく、今までもずっとのこってきた。

良いものばかりではないだろう。

もしかしたら、戦争のような、悪いことばかりが
残っていて、またもや、手つかずのまま、
未来永劫残っていくのかもしれない。

悪人にも名誉があるように、
人間にとって悪いことにも価値はある。

それは、理りそのものに近い存在。

未来のことを知りたいと本当に考えるのなら、
変わらないものを観察することが、
大切なのかもしれない。

長嶺

本日のおとなりさん 活動日誌(土日祝以外は、だいたい更新)

2017・7・28・金

「カラオケノート」

昨夜は、地元の味噌蔵の社長と、
足柄駅近くの「かも笑」という
居酒屋に行った。

ともても人気のお店なので、
入れなかったら申し訳ないと思い、
18時過ぎに電話を入れて席を
取っておいてもらった。

店に着くと超満員で、
かろうじて空いている
L時のカウンターの端席には、
予約の札が2つ置いてある。
そのうちの角席が、
ぼくたちの席だった。

ここはおつまみがなんでも美味しいのだが、
いつもと違うものが食べて見たくなり、
3品ほどおまかせで作ってもらうことにした。

「おまかせなんて、はじめてみたよ。」
と、隣の席の常連さんに言われたが、
「好きなもの3品たのむひとばかりだよ〜。」
と珍しがって、笑って許してくれた。

刺し盛り、揚げ春巻き、
砂肝の銀皮の唐揚げが出てきた。
砂肝の銀皮は、周りの銀色っぽいところだけを
揚げたものなんだそう。
こんなの食べたことないが、ぜっぴん!
これはメニューにあるのかと
隣の常連さんに聞いたら、ないそうだ。
おまかせにして正解。

二軒目は、近くのスナック、
「セカンドステージ レイコの店」へ。

店内は広くてあかるく綺麗で、
きっぷのいいママが切り盛りしている。
最新のカラオケ設備と、料理が自慢だそうだ。

お味噌の社長がカラオケの曲名を
思い出せずに困っていると、
ママが「ここに書いてあるかもよ」と、
分厚くなった、ノートを持ってきた。

そこには、お客さんが何を歌うかが
手書きでメモしてあるのだ。

ほどなくして、お目当の曲も見つかった。
ママは「何十年して来てくれてもうれしいの」
と言っていた。感動してしまった。

時計の針が、てっぺんで重なった。

長嶺

 

本日のおとなりさん 活動日誌(土日祝以外は、だいたい更新)

2017・7・27・木

「夏休み・忘却」

いろいろなことがあって、
もう今日の締め切りまでに書ける自信がなかったので、
昨日の夕方に、この短い文章を書きはじめた。

ぼくは、毎朝6時頃に家を出るのだが、
最近、その時間に子どもを見るなあと思っていたら、
もうすでに立派な夏休みになっていたのだ。

そういえば、子どもの頃は本当に、
ちゃんと子どもらしく、
夏休みが楽しみで、楽しみで、仕方がなかった。

もしかしたら、一番好きなものは
夏休みだったかもしれない。

夏休みには、両親の故郷である大分へ毎年行っていた。

父方、母方の家にそれぞれ1週間ずつくらいは
居たのではないだろうか。
もしかしたらもっといたかもしれない。

小学校2年生からは一人で寝台車で行っていた。
確か「富士」という名前だった。

もちろん、ホームまでは両親や、祖父母が
送り迎えをしてくれたのだが。

実家は、東京の青梅にあり、
よく多摩川で泳いだり、バーベキューをしたり、
キャンプに連れて行ってもらったりした。

テントは、「米軍か!」と突っ込みたくなるくらい、
分厚く重い、生成りの帆布で、
端はモスグリーンの皮で補強されていた。

おしゃれなアウトドアというより、
どちらかというと、小さい妹と親子4人、
家族でサバイバルというような感じだった。

今朝、フェイスブックに、
青梅の実家の近所に住んでいた幼なじみから
友達申請が来ているのに気づき、承認した。

さっき、その友達から、
彼のお母さんが7月23日に亡くなったと知らされた。

ぼくの妹と、彼の妹が同い年で仲よかったから、
知らせてくださいと。

おい、ということは、ぼくらは兄妹で
同い年だったんじゃないか。

いつのまにか、
いろいろなことを忘れてしまっている。

長嶺

本日のおとなりさん 活動日誌(土日祝以外は、だいたい更新)

2017・7・26・水

「進化・進化・進化」

ダーウィンの進化論によると、
人類は猿から進化してきたそうです。

今もその途中だというのですから、
猿を見ては「ほんとかよ」と、不思議に思ってしまう。

実際に、人はどうやって進化するのでしょうか。
(あえて、ググりませんよ。)

考えられるのは、2パターン。
生まれるときに、進化した生命体として生まれてくるのか、
それとも生きている間に進化するのか。

桂米朝さんの言葉に、

『自分なりに納得して舞台に上がる、
この努力を怠ってはいけません。』

というのがあります。

『常連のお客さんは、
どこかで鍛錬を必要とする芸を見せないと納得しない。
これをやらないと、落語は芸として残りません。』

これも、米朝さんの言葉。

パンクは誰でも弾ける音楽なんですよ、
かっこよくないですか?と言ったジョージに対して、
そんなのつまらないじゃんと言ったのは、
浅井健一さん。

名人上手の人は、
常人には見えない景色が見えているから、
もっと上手くなりたいと言う。

新しい世界が見えかけているから、
努力ができるのです。

まれに、努力の天才だったという
場合もありますが、努力であっさりと
これまでの人類の壁を乗り越えて、
向こう側に行ってしまう。

こういう人たちを見ていると、
どうやら人類は生きながら
進化できるのではないかと思いますね。

ジャック・マイヨールとか、マハトマ・ガンジーも、
人類の進化だよね。あ、ギャル曽根も。

長嶺

本日のおとなりさん 活動日誌(土日祝以外は、だいたい更新)

2017・7・25・火

「芸術とデザイン」

「芸術」と「デザイン」は全く別物なのですが、
どこが違うのかなど、並列で比較されることが多い。

そういう時に話に上がるのが、
「芸術とデザイン、それぞれに、完成と正解はあるのか。」
というもの。

ぼくが思うに、人がイメージする
すべてをそのまま表現でき、
誤差なくそのまま相手が受け取れるという
技法がない以上、芸術には
正解も完成もないのでしょう。

技法というのは芸術にとって、
とても大きな要素です。
ですから、自ずといまのところ芸術には、
完成や、正解という概念すらないものと
されているように思います。

では、デザインのほうはどうか。

ぼくはいま、デザイナー兼
アートディレクターとして仕事をしています。

常にクライアントがいて、
制作するチームがあって、
予算があって、締め切りがある。

デザインは、そのリソースの範疇で、
もっとも結果を出せるものを
つくることを目指します。

当然、優れたデザイナーの方が
同じ条件下でも出せるパフォーマンスが高い。

そうした比較対象が溢れる世の中で自分たちを見つめ、
これが、「自分たちの正解かどうか」の
判断をくだすのです。

そのためには、まさに「やれるだけやった」という
納得の仕方しかないのだとおもいます。

デザインは芸術ではないので、
完成があり、正解もある。
けれど、完成度にも差があり、正解にも幅がある。
そして、その評価は結果で行われる。

長嶺

本日のおとなりさん 活動日誌(土日祝以外は、だいたい更新)

2017・7・24・月

「情報と体験」

テレビにせよ、本にせよ、シンポジウムにせよ、
人が体験で得たことを「情報」として享受することは、
とても効率のいいことだ。

ネットや、SNSは、世界中の「情報」に、
個人でも安価でアクセスできる。

また、情報発信のハードルも下がったので、
昔よりもアクセスできる「情報」が多い。

現代人は、こうした様々な「情報」を取り込み、
利用しながら生きている。

しかし、「情報」を得ることは、
自分が「体験」することとは、その本質が違う。
情報はあくまで「情報」であり、
「体験」にはならない。

だから、「情報」の共有で知った後には、
行動して「体験」する必要がある。

いくら他人から「情報」を摂取しても、
自ら行動し、考え、検証し、
主観的な見聞を広める「体験」なくして、
人は成長しないのだ。

モニターの前に座っているだけでは得られる
情報の質が決して高くはないということにも、
気づいておくべきかもね。

長嶺

本日のおとなりさん 活動日誌(土日祝以外は、だいたい更新)

2017・7・21・金

「シナリオと小説と広告」

最近、遊びで動画を撮りたいなと思っている。
ユーチューバーのような動画ではなく、ショートムービー。
映画のようにいうのはおこがましいので「動画」。

動画には、「シナリオ」というのが必要になる。

なので、最近シナリオのことを
ぼーっと考えている。

例えば、小説は全てを言葉にできるので、
ついつい言葉を増やして説明しがちだ。
「語彙力があるとえらい」という風潮もある。

しかし、シナリオは客観的事実を
並べていく表現方法なのだ。

小説で次のようなシーンがあったとする。

「女はあまりの悲しさと情けなさに
両手で顔を覆った。隣に座り、眉間のシワで
退屈さを隠しながらタバコを吸っているこの男は、
自分のことなどまったく愛していなかったのだ。
それが悔しくて悔しくて、さめざめと泣いた。」

これがシナリオになると、

「女は一瞬横目で男の顔を見ると、
両手で顔を覆い涙を流した。」

で終わりである。

これは、読者、観客に判断を委ねるところが多い。

つまり、シナリオは登場人物の気持ちを慮ったり、
このはなしの情景を、ほぼ全て自らクリエイトするため、
読者、観客の使うエネルギーが多い。

しかし、このエネルギーを使ったすべての瞬間で、
小さな感動が連続で起こっているのではないかと
ぼくは思う。

客観的事実を並べて委ねる先の、小さな感動。

そう思うと、シナリオの表現方法は、
意外とぼくが考える、広告の制作手法にも
近いのかもしれない。

長嶺

 

本日のおとなりさん 活動日誌(土日祝以外は、だいたい更新)

2017・7・20・木

「無限カレー」

どうやら、関東地方も梅雨が明けたとか、
明けてないとか。

昨日あたりから蝉の声が聞こえて、
すっかり夏気分だ。

夏といえばカレーだ。
むかし、もう学生は
卒業していたくらいの昔だが、
「無限カレー」」というのに凝っていた。

いろいろなカレーに変化させながら
一つの鍋で半永久的にカレーを食べ続ける
と言うものなのだが、
記憶を辿りながら、少し書いてみたいと思う。

まず、「無限カレー」と言っておきながら、
最初はポトフをつくる。

一鍋目のポトフで胃腸を整えたら、
二鍋目はこれにココナッツオイルや
スパイス、たけのこなどを入れて
タイ風グリーンカレーにしてしまう。

二鍋目が減ってきたら、
今度はトマト缶と、カレー粉、
ナスなんかを投入して、トマトカレーにする。

この三鍋目の中盤あたりになると、
だんだんデミグラスソース化してくる。

三鍋目が減ってきたら、四鍋目は
じゃがいも、人参、お肉に市販のお好きな
カレールウを加えて、どうぞ。

研究の結果、日本のカレーのルウは最強で、
これを入れれば、どんなものでも、
日本風カレーになってしまうので、
そこまでの仕上がりが多少不安でも大丈夫。
これを入れれば、ちゃんと着地できます。

最後は残って煮詰まったカレーにごはんを投入。
ドライカレーにして五鍋目終了。

ぜひ、お試しあれ。

長嶺

本日のおとなりさん 活動日誌(土日祝以外は、だいたい更新)

2017・7・19・水

 

「新しい時代の名刺にもとめられること」

新しいデジタルの世の中で、名刺は必要なのかということを、
頭の隅でぼんやり考えていた。自己紹介だけなら、
今は優れたデジタルツールがたくさんある。
小さな紙のカードに書かれた情報だけのアナログなツールは、
はたして必要なんだろうかと。

はなしが急に飛んじゃうけれど、
最近、足を捻挫して、整形外科に通っているのだが、
そこのスタッフの対応が、すばらしく感じ悪い。

スタッフは20〜40代の女性ばかり。
他の患者さんは年配の方ばかりなので、
そこに30代の男が紛れ込んできたせいで冷たいのかと思ったが、
どうやら見ていると、年配の人たちにも分け隔てなく感じ悪いし、
今の所見かけたスタッフの全員がそうである。

今日が、その通院の日なので、
一体なぜ、みんなあんな風になってしまうのだろうと
憂鬱になっていて、気がついた。
そこのスタッフは、みんな名札をしていないのだ。

ちゃんと統計を取ったことはないのでわからないが、
いい病院は、ちゃんと名札をしている気がする。

自分の名を明かしていないから、
そういう態度が取れてしまうということは、十分ある気がする。

名前の交換というのは、
コミュニケーションの基本なのかもしれない。

そこで、名刺である。まさに、名前の交換だ。

ネット上のやりとりで、仕事をすることが増えてきたが、
やはり担当者同士が対等で、気心知れた関係というのは、
いい仕事の基本だと思うのだ。

その第一歩として、名刺を渡すことで、
お互いの名前を交換し、
「よろしくお願いいたします」とあいさつをする。

これは、やっぱり良好な関係の
コミュニケーションを始めるための儀式なのだ。

新しい時代の名刺は、その儀式のために
さらに便利なように、よりパーソナルな情報を
増やしたデザインに進化してもいいのかも知れない。

いっとき、主婦の間でも名刺が流行っていたというのは、
まさにそこの機能が便利だったからでしょうね。

長嶺